序
低く、心地好い声が繊細な旋律を奏でる。
あの人の声。あの人の。
この壁一枚隔てた向こう側に居る。
壁に手を当てて、額を擦り付けて、あの人を感じようとするのだけれど、そうすればする程どうしても越えられない壁が遮る。
あの人に抱かれたのは一度きり。
たったの一度きり。
恋に落ちたとしてもそれきり。
そういう、約束だから。
一、一夜限り
イルカはこの遊郭で、髪結い師をしていた。
忙しいのは夕刻に差し掛かる前。
はやく、と急かす姐さん達の髪を結っていく。
櫛を通して、油で艶を出す。
細く長い髪は人間の一部分であるのに、段々と物の様に見えてくる。
そうして店に灯りが燈る頃、櫛やら鏝やらを洗う為に店裏の川へと向かう。
この時間が、イルカは一番好きだった。
忙しさが過ぎ去り、一人になって肩のこわばりが解ける。
そして、最も静かな時間。
陽も沈みきっていないこの時間は、まだ客も少ない。
もう少し時間が経てば、姐さん達の嬌声が聞こえ出す。
あれ
もっと
イルカとて男である以上、女の痴態を見れば反応する。
しかしこの郭で育ったようなものなので、夜毎聞こえるその声は雑音でしかなかった。
更に、あまりに激しく乱れた姐さんの、髪の結い直しがある。
一晩泊まっていく客ばかりではなく、姐さん達も一晩に一人しか客を取らないという訳ではない。
眠れるのは朝。
朝は鴉が煩いが、夜の煩さより幾らかはまし。
そうして起きればまた、忙しくなる。
だから心から安らぐのはこの時間だけ。
更に、イルカがこの時間を待ち望む理由は他にもある。
時折来る上客が、この時間に二階の窓から手すりに乗り出してぼんやりと川を眺めているのだ。
その人の美しさと云ったら、きっとこの遊郭一番の姐さんだって化粧を落としてしまえば敵わない。
男であるとか女であるとか、そう云う事を超越している。
見ているだけで幸福をもたらすのだ、その人は。
だからイルカは、その人が今日は来ているだろうかといつも心を高ぶらせる。
そうして窓にその人が見えると、イルカは心に春が来たような気分になるのだ。
しかし当然の事だが、その人はいつまでも外を眺めていてはくれない。
暫らくすると、中から声が掛かり、その人は障子を閉めて中へ入ってしまう。
姐さん達の噂によると、その人は忍らしい。
そして、常に口元を覆っている為、……それは行為の最中ですらもだ、誰一人としてその人の顔を見た者は居ないと言う。
言われてみれば、川を眺めるその人は口布を取っているが、部屋に入る時は布を口まで引き上げてから入っている。
――あの人の素顔は俺だけしか知らない。
少なくともこの郭ではそうだ。
そう思うたび、イルカは密かな優越感に心が満たされた。
その日、川へ出たがその人は居なかった。
もちろん、どちらかと言えば居ない日の方が多いのだから、仕方のない事だ。
だが少しだけがっかりした。
全て洗い終えて部屋へ戻ろうとした時、廊下でイルカは袖を引かれた。
「何ですか?」
振り返ると、よくイルカを可愛がってくれる、鈴駒という名の遊女であった。
彼女は華やかに笑う。
「イルカちゃん、私ねぇ、落籍する事になったの」
「ええ!」
落籍、とは身請けの事。
「あ、おめでとうございます」
「だから今日はもうお店に出なくていいって言われて、暇になったの」
「はあ」
「だからちょっと付き合って」
しなりと傾げた首筋が、何とも色を放つ。
さり気無い仕草は全て、男を惑わせる為に身体に染み付けたものだ。
イルカが頷くと、鈴駒は名前の通り鈴が鳴る様に笑った。
そうして連れて行かれた場所は、姐さん達の着替えや化粧、髪結いを行う部屋。
「鈴駒姐さん?」
「イルカちゃん、そこに座って?」
言われるがままに座ると、鈴駒は化粧道具の中から白粉を取り出した。
「姐さん、まさか」
「黙って」
つい先ほどまで笑顔であったというのに、今は鬼も斯くやといった形相。
イルカは身動きが取れなくなった。
鏡の中には、美しい、美しい、一人の遊女が映っていた。
艶やかな着物からは赤い襦袢が僅かに覗く。
白粉で余す所無く白くなった肌に、真っ赤な紅が唇を飾る。
目を伏せるならばその眦から陰を作るように引かれた紅が、言い表す事の出来ない色香を放つ。
惜しむらくはその髪だ。
櫛を通して充分に艶やかな黒髪はしかし結い上げられる事無く、重力に従って着物の上に散っていた。
イルカは呆けた様に鏡を見つめた。
隣で鈴駒が満足気にイルカを見つめている事すら忘れて。
「勿体無いと思っていたのよ。イルカちゃん、本当はこんなに美人なのに」
鈴駒の声に、我に返る。
そして、鏡の中の遊女が自分であると認識し、慌てて顔を覆った。
「あ、洗ってきます」
勢いよく立ち上がり、鈴駒が抗議する声も聞かずに部屋を飛び出した。
とんでもない、とイルカは顔を赤くする。
男の自分がこの様な格好をしているなんて恥もいいところだ、と。
花街に身を置いているのだから、色を売る男が居るのは知っているし偏見も無いが、自分がするとなるとまた別の話だ。
早く洗い場へ、と廊下を急ぐ。
顔を伏せていた所為で何人かにぶつかりそうになったが、構ってはいられない。
勝手口から外へ出て、川へ向かう。
いつも道具を洗う場所に膝をつき、顔を洗おうと前屈みになった。
その時に。
その時にふと、視線を感じて振り返った。
二階の窓。
あの人が、こちらをじいと見つめていた。
イルカはどくり、どくりという己の心臓の脈打ちを聞く。
初めてだ。
目を合わせるのは、初めて。
イルカはずっと、あの人が遠くを見つめるのを見つめてきた。
今その視線はイルカを見ている。
酷い興奮に、イルカは己の姿を忘れてその人を見つめた。
驚く事に、彼の目は色違いだった。
澄んだ蒼の右目。
禍々しい程に赤い、紅い、左目。
しかしそれは、彼の美しさに拍車をかける。
やがて、いつもの様に中から誰かが彼を呼んだ。
彼が、行ってしまう。
イルカは、あ、と声を漏らしたが、彼は中へ入ろうとはしなかった。
彼は口布を付けて振り返り、逆に中の者に何かしら告げ、そして手招きした。
窓際へ顔を現したのは、この郭の主人だった。
彼はイルカを指し、主人に向かって何事か囁いた。
すると主人は目を丸く見開き、食い入るようにイルカを見つめ、そして慌てて中へ戻っていった。
彼はそれを楽しそうに眺め、再び視線をこちらへ戻した。
そうしてまた口布を下ろす。
ふうわりと微笑まれ、イルカは己の姿を思い出して急に恥ずかしくなった。
顔を彼から隠すように逸らせ、再び顔を洗う為に川へ身を乗り出した。
そして川に指先を浸けようとした、まさにその瞬間。
「待て!!」
郭の主人がイルカの腕を掴み上げた。
主人は肩で息をしている。
二階から、走って下りてきたと分かる。
イルカが訝しげに眉を顰めると、主人はとにかく中へ、とイルカを引っ張った。
訳も分からず立ち上がり、ふと気になって見上げた二階の窓は、既に障子が閉められていた。
控えの部屋へ戻ると、見世へ出ていた姐さん達が集まっていた。
そして、イルカの姿を見て一様に溜息を漏らす。
そんな様子の姐さん達を主人は追い払い、イルカに事態を率直に語った。
「指名された」
イルカはぽかんと口を開けたまま目を見開いた。
誰に、だの、誰が、だの、白々しすぎて聞くことも出来ない。
あの綺麗な上客に、イルカが指名された事は明白だ。
「おまえも、郭の人間だ。あれ程の上客は滅多に居ない。それも指名は初めてのことだ。失礼があってはいかんのだ」
主人も随分と動転しているらしく、つらつらと文言を並べる。
何度も額の汗を拭いながら、説得というものをイルカに対して試みているらしかった。
「あの方には、よく言って、一度きりという事にしておくから、な。たった一度きりだ」
一度であろうが、二度であろうが、身体を売ってしまえば同じ事だ。
そして二度目以降を断ると言うのなら、最初から断ればよいのに、兎に角今はイルカに客の相手をさせる事しか考えられないのだろう。
イルカはイルカで、あの人が自分を望む事に動転しきり、一度だけとうわ言の様に呟きながら必死に頷いた。
「ああ、その前に身体を綺麗にしなくては。粗相があってはいけない。おまえは早く湯を。鈴駒、作法を教えてやってくれ」
そうして結局の所一度全て洗い落とし、綺麗に身体を磨いてから、化粧を施された。
顔ばかりでなく、胸の飾りにまで紅が差される。
その冷たい感触に、イルカは身体を振るわせた。
しかしそこまでしても、やはり髪だけはどうする事もできなかった。
己で己の髪を結う事が出来ないからだ。
仕方無く、髪だけは丁寧に梳かし、紅い花飾りを挿すだけに留めた。
全ての準備を整え、いよいよあの人の待つ部屋へ向かう段になり、鈴駒が涙ぐみながら言った。
「ごめんねぇ。私がイルカちゃんに悪戯したばっかりに」
「姐さん」
「何度も私が変わりにってお願いしたんだけどねぇ、聞き入れてもらえなかった」
「いいよ、姐さん、一度きりだから」
鈴駒の涙を見ていると、イルカは逆に腹が座った。
そうして一夜限りの陰間が誕生した。
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